「わかる」ことの意味……?

こんにちは^^*

 

しつこく借り物のかき氷です……。

これ、本当に美味しそうです。

 

ところで、先回のブログ記事にちなみ、aua_mom さんからコメントでおもしろい刺激をいただいたので、それについて考えてみました。

書きたいことが見つからなかったので長く放置していた教室ブログですが、書きたいテーマさえあれば、ブログなんてどんどこ書きたくなるもんなんですよ、うん^^*

 

さて、引用してみます。

 

aua_mom:

私の場合、「わかる」=「使える」ではなく、とにかく「使えるようになる」が主目的、大抵の場合はあとから理解がついてくるような気がします

なので、まず第一に「感覚」を捉えること、次は、そして
「経験(トライ)」、
「得意(好き)なことへのすり替え」
最後に「納得(=論理の理解)」です(笑)

 

このご指摘、すごく共感するんです。

ただし、わたしの場合、ドンピシャで共感する習い事とそうでない習い事の場合があります。それから、「得意(好き)なことへのすり替え」というプロセスが欠落しているかもしれません。それでも習い事の一つには、これがとてもよく体感できるんです。

つまり、「できる」ようになっている技法は書物を通しても、とてもよく「わかる」のですが、いまだ「できる」ようになっていない技法は、いくら書物を読んでも実はよくわからないんです。

 

その一方で、別の習い事にはそれが適用されない。できればそちらは、理論で理解しておけることは理解しておくほうが、実用の助けとなります。すくなくとも、わたしには。

 

つまり、習得したい内容によって「わかる」ことのプロセスは、大いに異なるのかもしれませんね。

 

そこで両者のなにが違うかというと、片方は、日常の生活では決して体感しえない感覚を習得せざるを得ないものなのです。

はい、日常の生活では、馬なんて決してまたがりませんので(。-_-。)

このあたりの違いは大きいのかも。

 

そしてもう一つ。

 

aua_mom:

「わかる」ことは今持ってる自分の引き出しに整理出来るので「わかる」、でも「わからない」ことは今持ってるどの引き出しにも整理できないから「わからない」んですよね。
じゃ、その「わからない」ことはどうする???
・今までにある似た引き出しを探して片付ける?
・それとも新しい引き出しを作る?
・昔しまったものを出して入れ替える?、、、
いわば衣替えというか断捨離というか、そんな過程も必要ですよね。

 

わたしの場合、「わからない」ことは、すべからくバッファー(一時的なデータの保管領域)に放り込んでいると思います。こじ付けたり、無理くりに判断したりはしたくないので、早計に判断できないものは、すべからくこのバッファにしまっておきます。その後なにかの拍子に、しまいたい引き出しが見えてくることがあるのです。そして、その見える瞬間が、とても楽しい。温めておいてよかった~と、ほっこりする瞬間なのです。

 

また「わかった」気になって、とりあえず引き出しにしまいこんである「わかる」内容も、たびたび引き出してみて、仰る通りの衣替えなり断捨離なりをして、当時の判断を検証しなおしていると思います。そのたび、物事の「わかり方」が一つ深くなったような気がして、ほくそえんでいます。

もちろんただ、深くなったと錯覚しているだけかもしれませんけど。

でもいいではないですか。考えることの楽しさは、それこそ、こういう行きつ戻りつにあるのではないかなあ。独りよがりであってもいいんです。

他人様を傷つけるわけでもないんだから。

楽しければ、それはそれでいいのです。

 

ということで、今回も「わかる」を通じて楽しく遊べたのでした。

ありがとうございました。